Every starry jewelry in your eyes
2005年8月11日午前6時に起きた。これは学生時代に目覚まし時計で起きていた名残で、既に習慣化した一部である。
習慣・・・人間として持っているこの機能は、それが意識される時には、大抵素晴らしいものに感じる。それをする度に注意が喚起されては身が持たないであろう繰り返しの行動に関しては、人は無意識に行うようになるのだ。
自分でも笑えてくるくらい、利口な脳である。
起き上がって、軽く身体を伸ばす。ピントが合ってきた。
視界には、いつもの白い部屋。
部屋には必要最低限の物しか置いていない。何が必要かという段階で、僕の意思のフィルターを通過するわけだけれど、最低限と判断するのも僕だし、物だと判断するのも一緒。
だから、結局「必要最低限」なんて言葉に意味はないのかもしれない。要するに、物が少なめだということ。
白いドアを開けると、外の空気。少し寒い。現実だ。
ゴミ出しを済ませて、軽くランニングをする。
走っている間は、言葉も、理屈も、論理もなくなって、剥きだしの思いだけが渦巻いている。
普段は過剰の装飾なしで頭の中に出現しないテーゼが、1フレーズで簡潔に表明され、それらの問いから逃げることを許さないかのように、何度もループする。
それを振り切るため、という適当な口実が出来て、走るには丁度いい。
煩わしいもの、面倒なものから解放されたいという思いも、好きだとか、嫌いだとかと同じく、綺麗な感情なんだろうと思う。
だが、それすらもどうでもいいこと。
この時間。この空。この緑。
風。光。そして、僕。
僕・・・・・・。
一人暮らしを始めて、既に一年が経過した。初めのうちはそれに伴ういくつかの生活の変動があったが、難なく対応した。
習慣化した、と言ってもよい。
元より、そう複雑な動機ではなかった。
人間が嫌いであるところの僕が、人間である両親と空間を共有することに耐えられなくなっただけの話。
そのような裏面はともかく、表向きには就職先からの距離の問題もあったので、両親は快く送り出してくれた。以来、盆と正月にしか帰っていない。割のいい取引だった、と思う。
仕事が忙しいフリをすれば、誰も口を挟めない。数少ない、仕事をする価値だと評価できる。
デザイン関係の会社に勤めているが、それだって本当は何だってよかった。ある程度の人間関係はあるが、割り切って装う、この2点さえ気をつければなんのことはない。
どんな仕事をしているか、何をしたか、それすら人間の本質に深くは関わらない。ただ、他に判断材料として適当なものがないから、人の行為や、その結果などに縛られ、囚われることとなる。
僕という存在と、僕の意思。それを汲み取るために、僕の何をもって判断材料とするのかは自由だけど、結局それ自身の他にそれを表現しうる言葉はないのだ。
つまり、認めるだけ。
もっとも、他者に対する理解はそれが限界だし、それだけで十分だ。
さらに深い部分まで立ち入ろうとすれば、必ず手痛いしっぺ返しを食らう。
僕はそれを学んだ。
アプリオリではなく、アポステリオリなもの。
しかし、信じるには足る。
信じるって、かなりエネルギーがかからない行為のうちの一つじゃないかな、って思う。
みんな省エネが好き、ということ。
な〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜んにもしないでまったり暇を貪ってました。こんなんでいいのかな、って思わなくもないけど、地道に、やれることからやってくしかないからね。
そういえば昨日猫師匠からQ&A形式で色々と興味深い話を沢山聞いて、「女の子にはとにかくメールしろ」だとか「恋愛の賞味期限は3ヶ月もすれば切れる」だとか、もう猫師匠は見かけによらずエロスの塊だということがわかりました。また色々教えてください。
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