僕の思考。僕の身体。僕の挙動。僕の存在。そして、僕以外の有象無象の連なり。
ここには、現実しかない。
だが、ここにあるものを現実と定義したのだから、それも当然と言える。それに、現実は嫌いじゃない。現実には僕の自由意思の介在する余地があって、それでいて現実はそれをわずかばかりも意に介さないかのように振舞っている。だが、往々にして現実は反応が顕著である。反駁する意思も、雷同する志向も、すべてがクリアーになる。都合のいい妄想や、モニターの中のやりとりではそうはいかない。それらの中では、秘匿され隠蔽されているのにも関わらず強大なシステムが、近づいたものを取り込むようにして漠然とした広がりを持っているのである。
一方で、僕は人間が嫌いである。より具体的には、他者との接触に関して、おそらく平均一般の人々よりネガティブな姿勢を保っていると言わざるをえない。もちろんそれには理由がある。
一つには、他者との接触は常に互いの思想の混交を招く。もちろんそれが歓迎せざる事態であるという明確な根拠はないが、やはり自身が築き上げてきたとは言わないまでも、自己の所有物というのは少なからず保持欲というものが働いてしまうのである。思想についてもその例外ではなく、須く他者との接触は消極的にしてなるべく自己の思想を表に出さぬよう、いわゆる仮面を被ることとなるわけである。もちろんわざわざそのようなことをしなければならない他者との接触を完全に断つべく、自室から出ずして生活することも何ら厭わない。果たしてこれは「引きこもり」だろうか?だが世間からどう評価されようが、最終的な判断を下すのは僕だ。
最近健康的な生活に戻ってきました。いや、ただ就寝時間が日付が変わる前になって、起床時間が午前中になっただけですけど。それでも大分進歩したと言えるんですが、健康志向のチャーリーには理解されないでしょうね。
ここには、現実しかない。
だが、ここにあるものを現実と定義したのだから、それも当然と言える。それに、現実は嫌いじゃない。現実には僕の自由意思の介在する余地があって、それでいて現実はそれをわずかばかりも意に介さないかのように振舞っている。だが、往々にして現実は反応が顕著である。反駁する意思も、雷同する志向も、すべてがクリアーになる。都合のいい妄想や、モニターの中のやりとりではそうはいかない。それらの中では、秘匿され隠蔽されているのにも関わらず強大なシステムが、近づいたものを取り込むようにして漠然とした広がりを持っているのである。
一方で、僕は人間が嫌いである。より具体的には、他者との接触に関して、おそらく平均一般の人々よりネガティブな姿勢を保っていると言わざるをえない。もちろんそれには理由がある。
一つには、他者との接触は常に互いの思想の混交を招く。もちろんそれが歓迎せざる事態であるという明確な根拠はないが、やはり自身が築き上げてきたとは言わないまでも、自己の所有物というのは少なからず保持欲というものが働いてしまうのである。思想についてもその例外ではなく、須く他者との接触は消極的にしてなるべく自己の思想を表に出さぬよう、いわゆる仮面を被ることとなるわけである。もちろんわざわざそのようなことをしなければならない他者との接触を完全に断つべく、自室から出ずして生活することも何ら厭わない。果たしてこれは「引きこもり」だろうか?だが世間からどう評価されようが、最終的な判断を下すのは僕だ。
最近健康的な生活に戻ってきました。いや、ただ就寝時間が日付が変わる前になって、起床時間が午前中になっただけですけど。それでも大分進歩したと言えるんですが、健康志向のチャーリーには理解されないでしょうね。
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