川嶋あい Ai Kawashima 陶山準 ieP CD ソニーミュージックエンタテインメント 2005/04/06 ¥1,050未定


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 あらかじめ決まっているテーマに沿って文章を書くのがいかに大変なことか。当然ながら散文的思考に比べ密度があがっているので、統計や情報の適宜な使用が求められるし、論理展開にも気を配る必要がある。おそらくおいらの心理学の評価がCだったのは、前期はテストの、後期は提出したレポートの内容が、論理の反対で(無論理論ではない)精緻の真逆といって差し支えないものだったからに他ならないだろう。レポートを書いている時は常に、論理を飛躍した唐突なオーバードライブをかましたい衝動に襲われる(心理学のレポートの時はこの衝動に屈した)。きっと文章書きには向いていないのだろうが、インターネット上でキャラクター化されることに慣れすぎて、現実生活でも群像劇を演じる自分というものを想像し、そのキャラクターに徹してしまう癖がついたのかもしれない。いずれにしても、スタイルを破るということに囚われて、逆に画一的な文章しか書けなくなってしまっているようだ。「意味があるようで意味がない」最近の人格的傾向を一言で表現するならまさにこれで、この文章でさえもその例外ではないようである。一見馬鹿馬鹿しいテーマでも存分に論じることができる↑のHPの管理人さんを、見習いたいものである。

 自由思考(定義は各個人に任せるが)が「言語」や「情報」、「思考」や「存在」といった抽象概念から形成されやすいのは、それらがおよそどのような疑問形式を用いても模範的かつ議論しやすい適当な命題になりやすいからである。「なぜ」あるいは「単純なYes/No」など、いずれにしても「この思考過程を完全に伝達することが可能か」といったふうにある程度有意義な(ものであると自らを騙せる)命題になることが多い。「あのムックを煮て食うことが可能か」では(ある意味面白いが)二秒でその思考が放棄されることが間違いない。自由思考も本質的な意味で「自由」ではなく(本質的な意味でも「自由」なものは存在しないと思われるが)一定の抽象性を備えたキーワードが好んで用いられるようである。もっとも、自由思考においては一つの命題に関して十秒も続けばマシな方で、およそ五秒ほどでまた違う命題が形成されはじめる。つまり「ムック」と「存在」との間には三秒ほどの差異しかないわけで、当然それらキーワード間で重要性との相関性が認められるとは一概には言えない。

 日記を書くという行為に関しては、現状でおいらの思想(というほどに洗練されてはいない、拙い断片、あるいは混ぜ物に過ぎないが)のメモ帳になっているこの日記を見ても、本質的でなく自由な行為であろう(本質的でないのは、いくらなんでも書けないと意識される事柄も存在するからである)。書き手が意味を持たせて書いたかどうかに関わらず、意味があると認識するのは常に読み手で、何のために書き手がその文章を書いたのかといった質問をするのは、基本的にはナンセンスである。

 
 音楽を聴く、鑑賞する、どのような表現であっても構わないが、およそ「音楽」といって連想される「演奏する」あるいは「生産する」でない述語について・・・(以後、15分程で4つのテーマについて非生産的な日記が続く)

 マジックは何もしてないので書くことがないです。新しいデッキでも思いつけば一日分のネタくらいにはなるんだろうけど。

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