ISBN:4061822411 新書 佐藤 友哉 講談社 2002/03 ¥1,050



 暇なのでまたしても試行。

 ありきたりな、「日常」という言葉にその意味のほとんどを包含し尽くされた状態の世界に再び降り立って、まずやることは大きな欠伸。この世界の歩みを刻み続ける二本の針の位置を確認して、それからようやく思考を回転させ始める。この場合、思考を回転「させる」というのは三桁の掛け算の暗算や日本の歴代総理大臣を順に思い出していくといった作業を指すのではなく、ただ単に意識することである。そう、「思考する」と意識することそれ自体が、自分だけの大切なハードウェアがまだ頭部に存在していることの確かな証明になる。しかし、それすらも最近ではあまり効を奏さなくなってきた。思ったより単純な私の脳は、赤ん坊がいつしか同色のまま点滅している光に興味を失っていくように、意外と素早くこの子供だましに慣れてしまったようである。いずれにせよ、思考の速度では最盛期を迎えつつあるこの体で少しでも多くの情報を、剥がれ落ちていく「日常」の断片を一つ一つ確かめながら拾い集めていこう、そう決心したのが一週間ほど前。熱しやすく冷めやすい自分にしてはよく続いているな、と思い始めてきた頃である。


 いわゆる魂の平衡感覚というものを彼らが持ち合わせていたなら、悲鳴をあげ、アンティークを叩き割るといった行動のすべてに意味がないことも理解できただろう。そしてそれゆえに、今度はただ静かにすすり泣くことしか許されなくなる。どちらの方がいいかは、僕には判断できない。ただ僕が後者の側の人間で、あるいは僕が前者のような行動を取ろうと思っても、滑稽なことにその絶対的な感覚のせいで吐き気がこみあげてきてしまう。

 悲しい時、楽しい時、嬉しい時、怒っている時、あらゆる感情のその絶対値が通常よりほんの少しばかり高まっている時、僕は思考しているだろうか。感情をもって人に接すれば、その実本当の自分を見せていなかったような罪悪感に襲われる。それが錯覚かどうかはともかくとして、しかして思考している自分は決して他者と相容れない存在とわかりきってはいるのだ。たとえばこの日記のように。思考を抽出し具現化しようとする作業は、ほんの数分前に見た夢の内容を思い出そうとすることに似る。結局のところ、こちら側の情報が少ないかあちら側の情報が少ないか、それだけの差異しかないのだ。

 意味がある、ないなどと議論することは無価値で、存在があって、ハイそれで終わりなのである、本来は。そこに物質的な境界線がひかれている以上、それ以上の理解は不可能であり、ただ人間だけが「概念」を「定義」して知った気になっている。いや、最初から「知って」いるに決まっているのだ。其処に在るものを「知らない」人はいない。むしろそれを恥ずかしげもなく広言する人がいることがおかしいのである。知っているだけではないか。知るだけで満足していたら、きっとこの世界の存在の約半分ほどを一生のうちに知れるだろう。そして死ぬ前にこう言われるのだ。「あんたが何を知ってるか知らないけどね、あんたは半径1cmの円の周上をぐるぐる回っていただけなんじゃないのかい?」

 見える。見えて、消える。消えて、また見える。
 星と、命と。区別のつかなくなった一切の記号は、夜に溶け込んで深藍色の絵の具となる。
 音と光の存在がほんの少しぼやけて、ほら穴のようにぽっかり開いた世界が近づいていく。
 最後の時がきて、地面を見ず、自分を見ず、空を見る。
 自然と無心になって、愛さえも。無視。宇宙(ソラ)を見る。
 濁った瞳。この。見ていて。はなさない。思考(ソラ)を見る。

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